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Form  / Light / Shadow

Aishu Gen Exhibition
 
2021.11.30(tue)~12.05(sun)

Form  / Light / Shadow 【You Tube】
Aishu Gen Exhibition  
2021  リーガロイヤルギャラリー
https://youtu.be/AfteZTw3ZA0

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​コメント
中塚宏行(キュレーター/美術評論家)
【 おいたち 】


嚴愛珠さんは華僑として来日したご両親の次女として1949年に日本・大阪で生まれた。
高校卒業の頃、文藝春秋社の読後感想文のコンクールで、井上靖『天平の甍』で書いた文章が大賞(特賞)を受賞、また民話や松谷みよ子の作品が好きで児童文学やエッセイコンクール等によく応募していた。卒業後は大阪教育大付属中・高等学校の事務員となる。杉浦康平氏が装丁の季刊雑誌『銀花』が好きで、161号すべてを持っている。職場が学校だったので、図書室にも良く出入りし、また友人からは絵画制作のモデルを頼まれ、美術の先生から展覧会のチケットをもらって友達とよく展覧会を見に行った。中でも小磯良平の「新制作派協会展」を見るのが楽しみで、また伊藤継郎・西村元三朗・猪熊弦一郎・脇田和・三岸節子・荻須高徳・船越保武らの作品にも心うたれた。1976年頃、西村元三朗に人物デッサンを習ううちに、油絵を描きたくなり、西村から「伊藤継郎洋画教室」を紹介された。86年には、武蔵野美術短期大学通信教育を受講する。色彩学の『無彩色』の研究をし、Bauhausを学び、カンデンスキーの「点・線・面」(西田秀穂訳)、「抽象芸術論」(西田秀穂訳)、「芸術と芸術家」(西田秀穂・西村規矩夫共訳)を熟読致した。
伊藤継郎の長女の吉村安子さんから「山芦屋の父のアトリエに来て石膏デッサンを描いてみては?」と誘われて、伊藤の晩年の約3年を内弟子として伊藤の傍で制作、人物デッサン、クロッキ―などを描いた。伊藤の妻、初女からは「あなたと山木喜美子さんは継郎の最後のお弟子さんですよ。」と言われた。
また一方で、三重県立美術館で「元永定正展」を見た時、「なんて自由な楽しい絵だろう」と感じ、元永の絵画教室が気になりはじめた。元永から「頭で考えるからあかんのや。絵というのは楽しまなあかん。」と言われ、その言葉がいつまでも彼女の心に残っている。
ご両親のお墓は京都宇治市にある黄檗宗大本山の禅寺、萬福寺にある。愛珠さんは「我が家の菩提寺の事を私は何も知らない。禅の教えとは何だろう。」と思い、お寺の禅師に尋ねたところ、「萬福寺の事を知るには「禅大学」というのがあるので、入会したら如何ですか?」と言われて彼女は入会した。「禅大学」で様々な教えを受け40数年経ち、2000年に受戒在家得度した。
嚴さんは、新制作美術協会では、青、黒、グレー、白を基調色とする抽象的な絵画を出品して、94年に関西新制作で受賞したが、この年に伊藤継郎は没した。
その後、彼女は先述したように、元永の「具体美術」の作品や活動にも関心を持つようになり、元永が主宰するグループで活動するようになる。白を基調とした抽象作品をてがけ、03、05三重県展で受賞、03、04宝塚市展、04山口県展で受賞、さらには07の神戸ビエンナーレでは、コンテナで風船を使ったインスタレーションを制作した。

 元永さんは、嚴さんを「好奇心旺盛で行動力があり、たくましい作家魂を持つ」と評した。私も、彼女の話や経歴、年齢を聞いて、その素直さと、若さと活力(バイタリティー)には敬服するばかりである。
元永も2011年に没したが、その後は、中辻悦子さんが引き継いだグループで発表を続けるとともに、松田富雄が主催する「A-21国際美術展」でも活動している。
そんな、幾何学的抽象の現代アートをてがける嚴愛珠さんが、09の4月に、ご両親が眠る、萬福寺で開山堂内 瑠璃灯制作依頼を受け、完成記念として山内の塔頭寺院「天真院」にて個展を開いた。 作品も、禅と水墨画の世界である。 その時の彼女のコンセプトは、「いにしえの空間」と仙厓の「○△□」で、行雲流水がテーマであった。かつて仙厓が、書で「○△□」を描いたとはいえ、それは毛筆と書によるもので、現在の抽象絵画とは文脈も意味合いも大いに異なる。それでも嚴さんは、果敢に挑戦し、黒塗りされた幾何学的抽象図形「○△□」を塔頭内に持ちこんだ。また2013年からは、関西で活躍するベテラン画家の老舗団体、Ge展に誘われて、そこでも出品を続けている。さらに、2019には、バウハウスが生まれた国、ドイツでのバウハウス100周年記念に、個展の招聘があった。ドイツのヴェルダー市美術館での個展である。そこでは、嚴愛珠流の白黒のモノクロームによる幾何学的抽象の世界が展開された。展覧会名は「形・光・影」だった。

ご挨 拶

 この度、ご多忙の折にも関わりませず、「嚴 愛 珠 展」 にお越し下さいまし
て、誠に有難うございます。

 

長年「形・光・影」をテーマに 自 作品を展開してまいりました。

 

 2019年、ドイツでの Bauhaus100 周年記念の年に私の作品が Bauhaus の理念
と一致するということで、 ドイツ市美術館で 個展を開催してまいりました。

 

個展会場で「シンプル イズ ベスト!」「君はデッサウに行くべきだ!」 と
Bauhaus研究者(カンデンスキー 、クレー、ジョセフ・アルバース) の先生方
や、 Bauhaus の学校で学んだという画家の 方々 から 、 口々に 教わりました。

 

 雑誌と教科書でしか見なかった、あこがれの Bauhaus (バウハウス
デッサウにあるBauhaus に私を招聘して 下さった Werder 市美術館長ご夫妻 と
友人と共に訪れた時、 ガラスばりの 非常に 大胆で シンプルな建物 のすばらしさ
に感動、そして売店にある商品や作品などを見て 、 またこれ程 、私の作品と似
ていると私自身、驚きを感じたことはありませんでした。
 その感動は今でも忘れることはありません。

 

 私は「禅」の精神の『 捨てる 』 という事を 意識し 、また 『 無彩色 』 の研究を
自作品の中に取り込んで、今日の シンプルな スタイルに なりました。


 1996年 、 Bauhaus の学校は 「ユネスコ世界文化遺産」に登録され ました。

 

 リーガロイヤルギャラリーの素敵な空間 で、 再び 自己の作品と対峙する機会
を得ることが出来、また、こうして皆さまにご覧戴けることを、深く感謝いたし
ております。

 

これからも楽しみながら、自分の世界を描き続けていきたいと思っております。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

令和
3 年 12 月吉日
嚴愛珠

物書き を 夢見て 。。。。


 1968年 高校 卒業 の 頃 、 文藝 春秋 社 の 読後 感想文 のコンク ール があり、 当時 読
んでいた 井上 靖 著書 ・ 『 天平 の甍 』 の 中で 鑑真和上 が 来朝 される ために 多くの無

名 の 僧侶 た ち が 努力 したこと に深く 感銘 し 、 コンクール に 応募 致しました 。
今日のようなコピー などは 無かった 時代 でしたので 、 今では 何を 書いたか 全く覚えてい

ませんが 、 思いもよらず 大賞 (特賞 だったか を戴き 、 副賞として「 現代 日本文学 全集 ・

全 43 巻 」 を 戴き ました。 本箱 に 収まった 全集 を みながら、 「 すご~い! これ 全部 読

み切るのに 何年 かかるのかな? 」 と 思 いながら、嬉しさ が込み あげて おりました。
 自分の思い を 書いて 投稿 する 面白さ を 味わったのが 病みつきになり 、 当時 民話や

松谷 みよ 子 の 作品 が好きで 児童文学 や エッセイ コンクール 等 に よく 応募 しておりま

した。


 高卒後 、 就職先 を 考えていた時 、 大阪教育大付属 付 属 中 ・ 高等学校 の 事務員 の
仕事 の応募 があり、 諸試験 を受け 就職 致しました 。 職場 が 学校なので 図書館があり

ましたが 、 隣 の 教育大学 は 当時 学生 運動 の 最中 で機動隊 が常に 校門 前に配備 し

ており 大変な 時期 でありました 。 高校 時代 の 学友 がその教育大学 の図書館 で 司書

をして おりましたので、 よく 大学の 図書館にも 出入り し 、 いろいろな本 が 読める 環境で

した。
 

一冊の 本 との 出会い


 今日の私の 「 美 」 に 関して の 興味 を注ぐ 原動力 は 私自身の 好奇心 と 図書館 での
一冊の 本との 出会い でした。
その本は 芸術 一般 の事 柄 (民芸 ・ 民族 ・ 陶芸 ・ 有名 ・ 無名 の画家 および 染色
家 ・ 市井 の 人々の 手仕事 のすばらしさ など が 記載 され 、 ものづくりに 対する
精神 が 伝わって くる 季刊 『 銀 花 』 という本 でした。
 本の装丁 者 の グラフィック デザイン ・ 杉浦 康 平 氏 の デザイン が好きで 次第に
デザイン のほう にも 興味 が注がれ 現在 に至っております 。創刊【 1970 年 】 から 廃刊

【 161 号 】 迄 の 『 銀花 』 は 私にとって の 宝物 となりました。

絵画 との出会い

 絵画との出 会い は 、 職場 の 友人の 多くは 仕事 を終 え てから、将来 学校の 教師
の道に 進む 人 が 多く キリスト 教 短大 ・ 教育大 等の 夜学 等 に 通学 して おりました。
そこで彼女 達から 絵画 の作品 を 提出 しなければ 卒業 できないと 言われ 、 夏休み
に 人物 画 の モデル に なってほしいと 懇願され 、 協力 致し ました。
それがきっかけで 、 休憩 時間に 友人 達 の 絵 の進み具合 や 絵の具 などを 見ている
うちに 、 自分でも 描きたくなり ました。 当時 友人 達 を 指 導 していた 先生 は 教育
大学 の 教授 で 付属小学校 の 校長 先生 の 方 でした 。
職場が学校 でしたので、 中 ・ 高等学校 の美術の先生 から 私 達 は 公募 団体 や 展覧
会 のチケット など を いつも 頂いておりました 。
友人と よく 展覧会 を 見 に行きましたが 、 その団体 展 の中で 清楚 な人物 画 が とて
も 印象 的 だった 小 磯 良平 氏 が所属 していた 「新制作 派 協会 展 」 を見るのが 特に
とても 楽しみ になりました。
後の私の 師 となる 伊藤 継 郎 ・ デッサン の 西村 元三 朗 ・ 猪熊 弦一郎 ・ 脇田 和 ・ 三
岸 節子 ・ 荻須 高徳 ・ 彫刻 船越 保 武 各 氏 達 の作品 は 、 独特 な 絵画 でとても 鮮
明 に 心 うたれました。

師 伊藤 継郎 先生 との 出会い (1980年 師事)

 

 1976年 頃 新聞 紙上 で なんば 読売 文化 センタ ー の 記事を 読み 、 デッサン 指導
に 新制作 の西村元三 朗 との 名前 があったの で、 新制作 の 先生 だと思い 人物 デッ
サン を 習い に 行きました 。 2 3 年ほど デッサン を続けているうちに 油絵 を 習いたくなり 、

西村 先生 にご 相談 したところ、 同じ 曜日 に 昼 1 00 より 月 1 回 の「伊藤 継 郎 特別

洋画 教室 」 があ るとのことで 、 西村先生 に伴って 、 1980 年 に ご挨拶に 行き ました。

伊藤先生 は 私に 「絵 が好きか 」 「 はい、 本格的な 油絵は 描いたことは ありませんが、

人物 デッサン は 西村先生 につい て 3 年ほど 描いて います。 好きです 。 」 と申し ました

ら 「 今から でも 描いてもいいし 、 見 ててもいい。 」 と 大阪弁 で 気さく に 話 か けて くださ

いました。 来月 から 来たら いいと その場 で 入会 が決まりました 。
先生師事 して 2 3 ケ 月 後 、 高島屋 の壁画 制作 が完成 し お披露目 されました 。
難波高島屋 正面 の先生 の壁画 南海 沿線 のお祭り シリーズ を 目にした 時 、 非常 に

驚くとともに 、 教 室 の 方 々 と 感激に ふけっておりました 。
 あれから、4 0 年 経ちますが 私は 難波 に行く 度に 、 先生 の作品 に 「 先生 お元気です

か 」 と ご挨拶 して ゆっくりと 拝見 して 帰宅 しています。

 

伊藤先生 に師事 してから だんだんと 関西 新制作 ・新制作 展 と チャレンジ してまいりまし

た。 伊藤 先生 は 私の 作品には 一切 手を入れ られ ることなく 、 私は 自由に 描 いており

ました 。 当時 だんだんと デザイン的 画風 の 構図 が浮かんできたり して ちょっと 描きたい

もの の 基本 「黄金 分割 って何 だろう 」 など 疑問が起こりました 。 それで 「絵画 の基 礎

がわかっていないのだ 」 と 思い 同じ 伊藤継郎 先生 に師事 している 山木 喜美子 さん と

話し あい 、 1986 年 武蔵野美術 短期 大学通信教育 (ムサビ を 受講 する 事になりました。

師 元永 定正 先生 との 出会い (2001年 師事)

 

 元永定正先生との 出会い は、 偶然 の出会い でした。
 1984 年 から 関西 新制作 に 出 品 していましたが 、 10 年くらい 経った ころから
いろんな 団体 展 を 見ていても 、 同じ ような 作風 に感じて 自分自身 の 感動 が薄れ
てきました 。 そのような 時期 に 、 肥後橋 にある 朝日カルチャーセンター 近く の
ビ ル で ムサビ 大阪支部展 があり 、 その 帰り に 朝日 カルチャ ー センタ ―に行き 、
中国語 を 習おう と 思って パンフレット を手にした時 、 元永 定正 「抽象画 」 の 教
室 が 目 につきました。 随分 前 に 三重県 の美術館 で「元永 定正 展 」 見た 時 、なん
て自由 な 楽しい 絵だ ろう と感じ 「 抽象 絵画 とは? 」 に 興味 を抱き 、 期間中 に 数
回 見に 行った 記憶 が ふと よみ が えりました。
以前から 興味 をもち ながらも、 仕事の 都合上 日時 が合わなかったので 諦め て ま
した が、 カルチャ ーセンタ ―を訪れた 日が 、 たまたま 抽象画 教室 のある 土曜日
でしたので 再び 私の中の 好奇心 が 強く 働き ました。 それで 事務局 に お願いして
抽象画 の 教室 の 授業 を ちょっと 見学させ ていただきました 。
 それは、私の 中では 衝撃的 な光景でした 。 生徒 達 が それぞれ 自分の 作品

(サム ホール や 100 150 号 など を 床 一面 に 広げて 、 皆さん がそれ を 囲むよ

うにして 先生 が それ らを 静かに 見て 感想 を 述べられて いる 光景 でした。 「そ

もそも、大 量 の作品 を 描き 、 それを 次の 教室 の日 までに すべての 人々 が 持

参 してくる 事 」は 、 油 絵 で描いている 私には 考え られない 事 でした 。 授業 が

終わり 皆さんが帰宅準備 を している時に 、 先生 から 気さくに 「絵を 描いて るんか? 」

「 はい、今 いきず まって いろんな 絵 をみても、 感動 しない し、 自分 が何を 描いて

いいのか わからなくなっ てます。 皆さん 、 多くの 絵 を もっ て こ ら れて、 びっくり し

ています 」 と 言うと 、 「 頭 で考えるから あかん のや 。 描く のに 迷った ら バケツ に
墨 を入れ 、 縄 を そ れ につけて キャンバス の上で 、 何も考えずに ぴしゃ、ぴしゃした

らええ。 」 「 皆 は 本町 船場 センタ ービル の 布 屋 で売っている 学生 が 使う よう

な 安い綿布 を使っている ので 、 軽い し 何枚 も描いて もってきている ん や。 絵と
いうのは 楽しまな あかん。 」 と 初めて あった 私の 質問 に 親切に 丁寧 に 答えて く
ださ い ました。
 先生と 教室 の方々 と 一緒 に 歩いていると 、 そのまま 教室の 方々 の 反省会 と称し
て の 飲み会 の 店 に 入って しまいました。 ここで 自己紹介 があり、 「 伊藤継郎先生 に

師事 ・ 関西 新制作 ・ 新制作 展に チャレンジ しています。」 と 言いました ら元永先生 が

「伊藤さん に 師事 しているの 芦屋 の 美術 協会 の人や 。 気持ち ええ人や 。 」 と言って

下さい ました 。 油 絵 を 展覧会 に出品 するの に 100 号 3 枚 一度に 描いていましたが 、

乾く 時間 など を考えても 2 3 ヶ月 かかっていました 。 教室 の 方々 は 自由な 素材 で描

き 、 中には 自宅 の畑 の 野菜 で 自家製 絵の具 を作 り 制作 され ている 人も い たり し

ました。 初めは 皆の 絵 を見て 納得 し 、 すてきだなぁと感動 したことが よみがえってきま

したが、 いざ 自分の 中 で 抽象 絵画 を 描こうと 考える と どうすることも できず 、 帰 りの

車中 で は 「あれは 、 絵 画 いや 絵 画ではない と 否定 する 自分 がいたり。。。 」 毎回

教室 の 帰りの 車中 は、 自問自答の 連続 でした。
 8 9 ヶ月 ほど 経ったころ 、 先生から 「 そろそろ展覧会 が始まるので 何か 持っ
て 」 と言われました 。 デザインが 好きで 6 号 サイズ の 絵 を 5 枚 持って 行き ま し
た が、 「きれいに 描いている 。 が ちょっと きれい だけでそれだけ。 感動 が ない。
失敗 したのが あるか? それを 今度 持ってきて 」 と 言われました 。 次回 に 持参
した 作品 に 先生は 「 おも ろい や ん か~~。 センス があるけど セレクト して持っ
てきたら 先生 いらんわなぁ。。。 」 「今度 こんな 傑作 を もってきて 」 と 。
でもその時は 自分自身 のよさ が全く わかりませんでした。
(何 で こんな絵 が おもしろい のやろ しかし 他の人 の作品 や 変わった 技法 を 見 ている

うちに 、 画面 上 の空間 の重要性 を 先生 は 常に 言って られる のだと 、だんだんと 感じ

られ るように なりました。 「 ひとのまねをするな 」
「我流 は 一流 !」 「 一寸先は 光 」 など 先生 か ら 教わった 言葉 を 胸に きざんで
制作 して まいりました。
そのお陰で 、 私の作品 は 「形 ・ 光 ・ 影 」をコンセプトに 今日 のスタイル に なりました 。

「禅」との出会い

 

 我が家の 菩提寺 は 京都 宇治 市 にある 黄檗宗 大本山 「 萬福寺 」 で ありま す。
黄檗山萬福寺 は 、 臨済宗 、 曹洞宗 、 と並ぶ 禅宗 三 派 の 一つ 黄檗宗 の 大 本山 です。
当 初 は 臨済 宗 黄檗 派 と呼ばれ てい ましたが、 隠元禅師 の教え を 色濃く 継承 する
ために、 (例えば 声明 は 唐 音 で 唱え ている) 1876 年 (明治 9 黄檗 宗 と改名 され
ました。 日本 が 鎖国 状態 に あった折 、 将軍 徳川 家康 が 日 明 の 交易 再開 を 望んだ
事 もあり 、 華僑 として 日本 に 永住 する 商人 達 の 交易 が 盛ん で あった と聞いて い
ま す。 将軍 徳川 家綱 は 名 僧 隠元 禅師 と 謁見 し 、 彼ら の 心 の よりどころ として 、
1661 年 ・ 寛文 1 中国風 寺院 を 京都 宇治 黄檗 に 、 創建 し ました。
 私の 両親 も 華僑 として 来日 、 父 が旅立って 三 回忌 1975 年 )に 萬福寺 に 墓地
を建立 致しました 。 父 の お墓参り の あと、 敷地内 の 「大 雄 宝殿 」 にて ご本尊 で
ある「釈迦 如来坐像 」や「開祖 隠元禅師 」に お参り する を のが 常 の 習慣 となっ
ていました。 山内 で の 雲水 の 機敏 な 立振る舞い 、 黙々と 作務をしている 姿 な
どを 見て 、 「 禅 の教え とは 何だろう 。 」 「 我が家の 菩提 寺 の事 を 私は 何も知らな
い 」 と思い 、 山内 に おられた 禅師 に お尋ねしました 。
禅師は 萬福寺 の事を 知るには 「 禅大学 」 という のがあるので 、 入会 したら 如何
ですか? と言われ 入会 致しました。 禅大学 にて 様々 な禅師 から 教えを受 け 現
在 、四十 年数年 経ち 、 二 千年 2000 年 の年に 受戒 在家 得度 致しました 。
 2007年 隠元禅師 の開山 祥 忌 に、 赤松 達 明 禅師 、 家永 宜 勝 禅師 から 開山堂 内
「瑠璃灯 三 灯 」の 絵を 描いてほしい と 依頼があり 、 びっくり 仰天 しました 。
本格的な 水墨 画 は 描いた 事が なく 、 永代 に残さなければ ならない ので、 随分 と
悩みました が、 これも ご縁 を 戴いた と 思い 描かせて いただき ました。


無彩色について 長年 自分 なりに 研究 してきましたが 、究極 の 無彩色 の色 は
「水」 と 「墨」 だと赤松 禅師 から 気づかされ ました。

菩提寺 にて 「禅」 との 出会い があり 。。。

 

加島 祥造の老荘思想 老子 (タオ 、西田 幾多郎 、鈴木 大拙 、 沢木 興道 、 山川 宗玄 、

板橋 興 宗 、 テ ィ ク ・ ナット ・ ハン 、 「 碧巌録 」 「無門関 」 などの 思想 に 興味を抱 き、

テレビ ・ ネット 等を 通して 拝聴 、 書 など を拝読 致し て いました。
 していた・・・というより、 それは 自分 自身 が 理解 したように そう思って いたかも 知れ

ません 。
 禅の言葉に「 不立文字 」 「 教外別伝 」 という言葉 があ ります。
私はそ の文字 の意味を 本当に 自分自身 実感 したのは 、 十数年前 になりますが、
4 月 3 日 の 開祖 隠元禅師 の 開山祥忌 の折 の 赤松 、 家永 禅師 より 、 開山堂 【 重 文 】
内 にある 瑠璃 灯 の 絵 の 依頼 での こと でした。 当時 私は 現代 アート として 神戸市
が主 催 する コンテナ 1 台 を アートする 国際 コンクール 「神戸 ビエンナーレ 2007 」
に 第一次 に 入賞 し、 本番 で初 の 野外 インスタレーション に チャレンジ する チャ
ンス を 戴いた 時 でした。 お二人 の 禅師 よりの ご依頼 を戴いた とき 、 今までの 画
風を捨て 、 元永 定正 先生 のもと 抽象絵画 に 夢中になっている 時 で した。 本格的
な 水墨画 を 描いたことは 無く 、 永代 に 残さなければならない 作品 など と 考える
と 自信 がありません でしたので、 ありがたい お話ですが と お断り いたしました 。
参禅 するごとに 「 自信が ありません ので 他の 方 を 探し てください 」 と 申しまし
たら 、 「まぁ、 ゆっくりしたらいい」と毎回 笑って お話 を受けてくれませんで
した 。 1 年 近く にも なるので これが最後 と 思い 、 2 月 の 厳寒 に お断り の 参禅 に 上
がった 折 、 作務を している 雲水 の 草鞋 をはいてる 足元 から しもやけで パンパン
にはれあがって 膿 が出ている のを 見 ました 。 一人ではなく 、 それは 他の 雲水 も
そう でした。 私は それを見て 、 はたっと、 気 づき 「 これが 常々 禅 大学 で教わ
っている 自分自身 を磨く 禅 の 修行か 」 と思い 、 その足 で、赤松 禅師 に 会い 「こ
れから 何年 かかるか わかりませんが 、 描かせて くださいと そして 、 「 墨 」 と
「 水 」 の水墨 の世界 、 禅語 、 等々 を お教え くださいと お願い 致しました 。 赤松
禅師 からは お手本 、 禅語 の意味 、俳句 などを 教わり 、 周りの方々 から は 日常 の
動作 や 作法 ・ 茶道 など 見 よう 見まね で覚えました 。
瑠璃灯制作 のため、 いろいろな 書物 を再読 、 私の 絵画 人生で これほど 「禅 」 に
真剣 に向き合 った 事 はありません でした 。
 自分の納得の ゆく 瑠璃灯制作 に は 三年 の 時 の流れを 得て 完成 に至りました 。
今日まで 自分の 絵 と向き合い 、 無彩色 の色 にこだわり 続けて いましたが 、 その
無彩色 の基本 が 「水 」と 「墨 」である こ と を、 こ の瑠璃灯 制作 を 終えて 赤松 禅
師 から 気づかされ ました。
 あれから、十数年 経ちますが 毎回 参禅 する たびに 開山堂 にての瑠璃灯 の絵 と対峙

し 、 こころ 静かに 立 禅 しております。 この作品が 永代 の人々 の 目に触れていくことを

想像 すると 、 自分は なんと 尊い 仕事 をさせていただいたことかと、言いあらわす 事 が出

来ない ほどの 幸せ を 感じ 感謝 して おります。

師 との出会い について 、思うこと

 

伊藤継郎先生・ 初 女 先生 ご夫妻 からは 、 芸術 とは 「人間 性 を 身に つ けること 」
を 教わり 、
元永定正先生 ・ 中辻悦子 先生 ご夫妻 から は 、 「 絵を 描く 楽しさ 、 そして 描く 喜
び 」 を 教わり ました。
現在は 中辻 悦子 先生 が 主宰 されている 「現代 アート 研究会 」 にて 、 研鑽 してお
ります。


我家 の 菩提寺 である 萬福寺 の 瑠璃灯 制作 に 携わり 赤松 達 明 禅師 家永 宜 勝 禅 師
 そして 【 禅大学 】 を通して 様々 な禅師 さ ま から 「禅の こころ 」 「 人々 とご縁というもの

。。。 」 を 学 んでおります 。

 今日、 私が このように 好きな 事 を 出来 得てい る のは 家族 、 様々 な 先生方 、
友人 、 知人 の助けを 得て 出来ている 事 で、 これも また 人々 との ご縁 を戴いて 生
かされて いるの だと思って おります。

 

このご縁 に 感謝 し、 皆様 への お礼を 申し上げ ながら、 日々 制作 に 励んで おります。

 

 嚴愛珠   

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